揺れとブレ

何度も何度もブログのタイトルやらレイアウトやらを変えて申し訳ないです。見づらいかもしれませんが書いてる(叩いてる?)人間は変わってないので多めに見てやって下さい。僕、優柔不断なんです。
今日の日記のタイトルはただなんとなくかっこつけてみたかっただけで、意味は別に無いんで気にしないで下さい。とは言いながら、『揺れ』には軸(核)は動かない筋の通ったイメージを、『ブレ』には筋の通らない、定まらないイメージを抱きます。単語の品詞としては同じカテゴリーには入らないのかもしれないけど、今の瞬間はそう思います。
昨日3月4日に、いつかの日記に書いていた演劇
NUDO 第6回公演『森の中』
を観て来ました。本家のこの演目を観ずに、感想を言うのは変かもしれませんが、最近自分でも考えていたような事(民主主義や社会主義のそれぞれが持つ内部にいる人間が気づく事の無いような危険性など、思想的なものね。ここからは内容と関係ない。思うに、教育も催眠と一緒で、何が善いことで何が悪いことか、どんな風に思考を組み立てるとか、自我が芽生えるまでは何でもそうだと思う。)が題材に盛り込まれていて興味深く観劇することが出来たし、演劇と言う言葉、現象を考えさせられるような演出(舞台の上で演じるのではなく観客と同じ視点の高さで演じ、二次元ではなく三次元的な奥行きのある画面構成だった。劇の最後には、演じている人間が一人になり、まわりの役者が舞台道具を片付け始める!演じていた人間が素の自分に戻る。『演劇』自体の曖昧さが見えた気がした。いくら舞台上で演じていてもそこから下りてみれば結局は僕らと同じ様に街で生活している人間で、違う人間を演じているに過ぎない。)がされていて一回で二度も三度もおいしい劇でした。頭はとても疲れましたが。。
そんなこんなで、中学校時代の演劇部の顧問の先生のちょっといい言葉を思い出したりして。。
「勉強が嫌いなんだったら、嫌いでいい、けど、勉強の出来る優等生を演じてみろ、役作りのために勉強しろ。」
文字に起こすと何じゃそりゃって感じだし、この言葉を聞いて勉強して成績伸びたとかでもないけど、勉強じゃなく違う言葉をはめてみて自分を鼓舞してる。デキる人間を演じるためには上辺のメッキだけじゃあ駄目で努力をしてやっと演じれるからね。

はあ、文体がめちゃくちゃでひどいな。。