覚悟に似た何か

「覚悟に似た何か」は僕は持ち合わせていない。
今年の春ごろに出会った人は「いつ死んでもいいと思っている」と言っていたが、彼の言葉には妙に説得力があった。
それは彼自身の行動がそれだけの説得力を持っているように感じたからだ。
企業に就職し、結婚、子供を育てることを経験し、仕事を変えながら、今も働いている。
きっと全ての事に全力を注いできたんだろうことが彼の口調や立ち居振る舞いから感じられた。オーラのようなものを始めて感じた。
自信が溢れている感じ、迷いが無く、信念を大事に生きているんだろうなと感じる。
やりたいことをリアルタイムに実現し、常に新鮮な状態を保ち続けるのは容易ではなかっただろうが、実現してきた。
常に周囲の人間に影響を与えながら生きていたんだろう。


僕も「いつ死んでもいい」なんて言える日が来るのだろうかと考える。
少なくとも今は絶対に言えない。働きたいし、結婚したいし、子供も欲しい、もっと知りたい学問がある、漫画も、小説も、音楽も、もっと読みたい、聴きたい、旅行も行きたい、会いたい人もいるし、これから会える誰かも知りたい、可能性を考えればまだまだ遣り残したことが多すぎる、興味は尽きない、収束することすら創造できないし、したくない。
自分がどこまで実現すればいつ死んでもいいと思えるのか、解るわけがない。
覚悟が無いとかじゃないようにも感じる、覚悟する準備すらまだなんだ。もっと知って知って知って、感じて感じて感じないと、区切りのつけ所も解らないよ。ここまでやれたら十分だと思えるようになる日は、もっと多くの死に触れて初めて訪れる気がする。いや、僕のことだから区切りをつける事も出来ずにその日を迎えることになるのかもしれないけれど。「よくやったよ自分は」そう思える日が「もう、いつ死んでもいい」と思えるようになったスタートラインなのかもしれない。「何を以て覚えられたいか」この問いにはオンタイムで答えられるようにはまだ成れていないけれど、「お前は何者だ」の問いには少しずつ答えられるようになってきている気もします。もっと多くのことを吸収し、多くの人に伝えることが出来るならどれほど幸せだろうか。「実はそこにも彼が居た」そんな人が理想かなぁ。まだまだ生きることに執着していたいな。可能性はすぼまるどころか広がる一方ですからね。